1920年代日本軍潜水艦に初めて搭載された置時計(オメガ)

OMEGAの置時計は年代によってデザインや素材などの特徴が異なり、アンティークな置時計から最新のデザイン、世界の有名ブランド品などいろいろな品物があります。置時計は、腕時計とはまた違った魅力があり、室内の雰囲気をガラッと変えてくれます。

1920年代、日本軍潜水艦に初めて搭載された置時計(オメガ)

ManRyoの元に、日本軍の潜水艦に初めて載ったという置時計が届きました。メーカーはスイスの高級時計メーカー、オメガ社製です。日本軍の潜水艦と言えば、第一次、第二次世界大戦で活躍し、映画にもなったドイツの潜水艦『U-ボート』の技術提供を受け、日本独自の技術発展を遂げていきました。

非常に希少な潜水艦の搭載品

潜水艦の出撃は正に生か死か―、どちらかを迫られます。敵艦に見つかって砲撃を受ければ、乗組員全員が逃げ場のない海底で、潜水艦もろとも海の藻くずと消えてしまうものだったと言います。ドイツのU-ボートでは乗組員の3分の2が命を落としました。生存率はそれほど少なく、湿気のために食べ物は腐り、ともすると酸素の少ない船内は、一酸化炭素中毒の危険もあったと言います。撃沈されると海底に沈んでしまうため、果たしてどんな理由で沈んだのか、何が載っていたのかなど調べることはほぼ不可能です。

潜水艦の中での生活

潜水艦の中は非常に狭い空間で、廊下もすれ違うことができないほど。乗組員は魚雷と共に相部屋の蚕棚のようなベッドで寝ました。寝返りをうつこともできないほど狭かったと言います。航海中は毎日缶詰を食べながら、乗組員のほとんどが食べ物に飽きてしまい、たまに海から船内に入ってくるトビウオは絶品のごちそうであったと言います。 この置時計はそんな狭い狭い船内で、刻一刻と時の流れを告げる役割を果たしていました。当時の乗組員の息づかいがよみがえってくるようです。

幻の巨大潜水艦『伊400』

日本軍の潜水艦と言えば、近年その高い技術が全世界に驚きを与えています。2012年に中国の潜水艦に抜かれるまでは世界最大を誇っていた『伊400』潜水艦は、全長122m、当時の一般的な潜水艦の2倍の大きさを誇り、3機の特殊爆撃機『晴嵐』を搭載できるという画期的な潜水空母でした。地球を1周半航続できる37,500海里を誇り、日本から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、日本へ帰島可能だったと言います。

日本軍の極秘プロジェクト

日本軍は極秘プロジェクトとして、この潜水艦で南アメリカの南端を通過して、アメリカ東海岸からワシントンDCやニューヨークを奇襲し、爆撃機『晴嵐』で爆撃する作戦のために建造したと言います。 アメリカは戦後、この『伊400』潜水艦を徹底的に調査し、その技術力に感嘆したと言います。その後のアメリカ軍の潜水艦開発に大きく影響を与えました。ソ連からも調査依頼が来た数日後に、ソ連へこの潜水艦の技術が流出することを恐れて、ハワイ沖で海没処分にしました。

潜水艦の中の会話

『伊400』は1945年7月にウルシー南方へ初めて出撃しました。沖縄での本土決戦が迫っていた日本軍が支持した命令は、特攻作戦です。『伊400』はもう一隻の潜水艦『伊401』とウルシー湾で待ち合わせ、アメリカ軍に玉砕覚悟で突撃する予定でした。しかし、『伊401』の到着が遅れたため、8月15日の終戦を迎え、日本に帰還しました。『伊401』の到着が遅れていなかったら、わずか数日の差で乗組員は全滅していたかもしれません。 この『伊400』の乗組員に山西義政さんが乗っていました。山西さんは潜水艦の中で、同僚から、生きて帰ったら干し柿の商売をする勧めを受けたと言います。彼の故郷の広島は原爆で焼け野原となり、家族もすべて失った山西さんは、広島に帰った後、闇市で干し柿を売る商売を始めました。そこから発展したのが、西日本の大手スーパーゆめタウンを経営する株式会社イズミです。潜水艦の中で交わされた会話がなかったら、現在のゆめタウンはなかったことでしょう。

潜水艦の中で歴史を刻んだ時計

この置時計は、そんな潜水艦の乗組員たちが過ごした日々を、時と共に刻んできました。真っ暗な深海の中で、日本軍の若者たちが、国を想い、家族を想い、命がけで戦った歴史を刻んできました。海中のロマンがこうしてManRyoに届いたことに不思議な縁を感じています。

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