コレクターズアイテムとして高い人気を持つブリキのおもちゃ。最近ではマニアでなくとも部屋のオブジェとして飾られたり、美術のモチーフにされたりするなどその魅力は多くの人の心をとらえています。
ブリキとは鉄板にスズをメッキしたもの。ブリキ板だけだととても無機質で冷たい印象を持ちますが、職人の手にかかり「おもちゃ」になると、一変して温かみのあるものになります。このブリキの板が日本に輸入されたのは明治7年頃と言われ、しばらくして、ブリキのおもちゃの製作が始まりました。ちなみにブリキという言葉はオランダ語のブリク(BLIK)からきています。ブリクとは光る板という意味です。
初期の日本のブリキのおもちゃは、ガラガラや人力車、亀の子といった日本的なものです。ドイツやアメリカなどでつくられるおもちゃに比べると地味な印象で、初めのうちはあまり人気がありませんでした。ところが、1894年の日清戦争で景気が良くなり、玩具業界も活況を呈するようになります。
その後、ブリキ印刷機や合理的なプレス機械が導入されたり、鋼鉄ゼンマイが登場したりして、日本のブリキ玩具は発展を遂げていきます。そして、第一次世界大戦後は、それまでブリキ玩具のトップ生産国だったドイツに代わり、日本が第一生産国に躍り出ました。
戦後日本の輸出を支えたのは燕の洋食器とブリキ玩具とも言われています。
しかし、1938年ころから、政情不安定を理由にブリキのおもちゃは生産中止を余儀なくされます。生産が再開されたのは、まだ占領下にあった1947年のことでした。
1948年には、汽車や消防車、自動車などのフリクション(はね車)玩具が誕生し、1955年ごろには、電動玩具も登場します。1963年には、ブリキ玩具が全玩具の輸出額輸出額の実に60%を占め、1960年代前半はブリキのおもちゃの全盛期となりました。
しかしその後、プラスチックや超合金のおもちゃが登場するに至り、ブリキのおもちゃはその姿を徐々に消していくことになります。
当時、ブリキのおもちゃで遊んでいた人にとっては、ブリキのおもちゃと共に思い出されるかけがえのない思い出が詰まっています。こういったおもちゃのコレクターは多く、いまやかなりの高額で取引されるようになっています。
ブリキのおもちゃは、各パーツをツメで留めるというのが一般的ですが、明治時代に作られた古いものはハンダで留められていたりします。もちろん、ハンダ付けのブリキのおもちゃはツメ留めに比べて時代が古くなります。なお、占領下の日本で生産された事を示す”occupied japan”の表示のある物は高値で取引されています。
また、保存状態も大きなポイントで、サビや傷などがなく、ブリキの味をそのまま残しているもの、部品もしっかりとしているものには高額の値がつきますが、保存状態が悪いと一気に値が下がってしまいます。たとえば、同じロボットのおもちゃでも、新品同様の物は20万円しますが、サビが浮き出してしまっているものは5000円といった具合です。